「源為朝の伝説の真実は如何に!」
KazanJinaiGekijo. Fiction Hour.
『為朝伝説の真実』
「【第1話】我が身小なり大河の流れ關止ること叶わじ」
鳥羽上皇はついに病に伏せた
伏せて嗚咽しながら忽ちに生涯を全うしてしまった・・・。
伏せて嗚咽しながら忽ちに生涯を全うしてしまった・・・。
時は桓武(kanmu)天皇(794年)以来の悠久の安泰を続けていた平安朝末期、朝廷の勢力は突如2分した。
永治元年(1141年)、鳥羽(toba)法皇は実子であった時の崇徳(sutoku)天皇を中宮の待賢門院(taike) 藤原 璋子(しょうし/たまこ) と我が祖父白川上皇との間にできた不倫の叔父子であるという噂に仰天憤慨し崇徳天皇を有無を言わせずして退位させ崇徳天皇の弟の弱冠2歳の躰仁(taijin)親王を近衛(konoe)天皇 とし即位させた。 この近衛天皇は鳥羽上皇が一番寵愛していた皇后・藤原 得子(なりこ) の産んだ皇子である。時の世衆はこれを皇后得子の陰謀だともっともらしく噂した。
こんな俗世的な醜く儚い権力争いに巻き込まれて落胆した崇得天皇の母・璋子は心も体も蝕まれて病に伏せ鳥羽上皇を恨んで世を去った。
この璋子の恨みか?健体盛んな若者であった近衛天皇に突然原因不明の病魔が襲い近衛天皇は母得子の献身的な介護の甲斐なくあっけなく薨去した。
そのあまりに不可思議な死に様に璋子の恨みの因縁を感じずにはいられない鳥羽上皇はその呪縛に恐怖した。周囲の重鎮達の反対を無視して今度は璋子への詫びる気持ちからか突如璋子と自分の間の子供としても絶対に間違いないと思ったであろう璋子の第四皇子雅仁(masahito)を擁立して"後白河(gosirakawa)天皇"と為した。これは平清盛の圧力でもあったらしいが真意のほどは今なお不明である。
崇徳上皇は自分の御子の重仁(shigehito)親王の即位を望んだが鳥羽上皇はこれを拒んだ。
崇徳上皇が叔父子であったからというだけではなくて重仁親皇を天子に据えると自分の権力がまったく無くなってしまい政治的な抹殺を受ける事は目に見えていた。またその頃は平清盛の全盛期でもあり清盛一派がそれを望まなかった。朝廷の威光が及ばない摂関政治の真っ只中、摂関家である藤原家が跡目相続の内紛に揺らぎ一触即発の状態をきたしていた。ここで自分の手が権力のバランスから離れてしまうと時代は一気に急転直下を向かえる。戦乱時代の荒波にのまれてしまい乱世は必須であった。鳥羽上皇はそんな乱世への予感をひしひしと感じていて時の権力の一端だけでもなんとしてでも我が手中に留めて置かなければ国が廃れると危惧していた。後世そう考えても不自然ではなくまんざら荒唐無稽な思い込みではない事は鳥羽上皇の死をまたずして明らかにされている。そんな事態にはさせてはならないと苦悩しそんな時代の訪れを赦したくはなかったのだった。と推理するのが鳥羽上皇の本音を衝いているであろうと思う。この頃は藤原氏台頭の糺雲が告げる時代だ。朝廷の権力バランスは日々揺らぎなし崩しになぎ倒されて行った。さらには朝廷の権威の威光など微塵も武家政治にとってはいらないものであった。強大な武力の前に行威光などは無に等しい。それでも清和(seiwa)天皇の第6皇子貞純(sadazumi)親王の皇子・六孫王源経基(tunemoto)が築いた300年に渡る摂関政治までがひび割れ始めている今、朝廷の力の及ばない完全なる武家政治による武家社会が一気に到来してしまうと天皇家の存続自体が海の藻屑のような運命を辿りそうな危惧を抱いて不安が募り、今ひとつ平清盛一派を全面的に信頼するには至らずにいた。時は無常に秋の訪れを告げる。そして冬の時代へとひた走る。その重たい憂鬱な影が鳥羽上皇を日夜苦しめ脅かしていた。誰を信ずればよいのかさえ判らずにいた。誰が味方で誰が本当の敵なのか疑心暗鬼が鳥羽上皇の背後にまるで平等院鳳凰堂の屋根裏のような真っ暗闇が覆いかぶさってくるようであった。生後7ヶ月で立太子し白河上皇の教育を受けて5歳の時に父である堀川天皇の薨去にともなって天皇に推挙されて幼少期は白河上皇の支えがあったが十数年で退位して以来自分自身が幼い崇徳天皇や近衛天皇らの上皇となって政治のバランスを執ることに専従してきた。
武家が摂関政治を三百年間に渉って執り行っていることはそれなりに平安朝には理由があることであった。公家社会だけでは裾野の広がりに対応する民生力に欠けていたし強大な国家は強大な警察力がなければ治安が不安定で世の中が物騒なことこの上なく武家の武力が大切なことは否めない。それ故に朝廷側からしても武家社会の安定的な存続はないよりはあったほうが都合がよかった。だがその武家社会が権力闘争の渦中に晒され今にも暴走する牡牛のように前足の蹄で泥土を掻きあげて不気味な唸り声をあげていた。今武家に牛耳られている政治の実権を少しでも均等にしてバランスを保っておかなければ自分が姿を消した暁に戦乱の風雲が待ち兼ねたように巻き上がるのは要用と推察できた。なんとしてもそうなることは避けたかった。避けなければ何処まで悪化するのか及びもつかなかった。そう考えて着実に策謀を図ってきた。着実な策謀は徐々に実態化するはずであった。源家も平家も自分の一派に取り込んできた。公家が武家に取り入ることが必要な世ではなかったが行く末を思えばそんなつまらない自尊心など取るに足らないことであった。だから若くして退位し立場の融通の利きやすい上皇となって天皇さえ自分の思い通りに擁立して政治に介入しやすい立場を手に入れた。ほどなくことは成るはずであった。そんな混迷な時期に崇徳上皇の意向に思い入れてその御子を天皇にしてしまうことはその途端に今までの労苦が垂水泡と帰すことであった。今この時期に政治的バランスが崩壊してしまうと一気に乱世へと突入してしまうであろう事は火を見るよりも明らかであった。ここで何が何でも源平の政治力関係を糺しバランスよくしておかなければ日本の国の平和が乱れさらには外夷の侵略さえ赦し民衆を苦しめ窮地の底へ陥れる事になるのは一目瞭然。この国をここまで豊かに培ってくれた数限りのない先人の努力やその魂に背くことになる。そんなことには何があってもさせては成らぬ。その情熱が熱く胸に滾って溢れていた。あとどれくらいの時が必要なのかは推し量る事もできなかったが鳥羽上皇は力の限り国の行く末を案じて糺そうとしていた。ししかし、鳥羽上皇の溢れる思いとは裏腹に時代はすでに源平の争乱の大渦が渦巻き動き始めていた。それは紅蓮の炎となりつつあって白煙が静かに揺らぎ天空を舞って兆しを見せ始めていた。
そんな鳥羽上皇は心労が重なり天命が遂に尽きた。病魔に冒され伏すことも少なくして急逝してしまった。世の民衆はそんな鳥羽法皇の逝去に心から涙を零して喪に伏した。しかし、政治情勢は時を図ったようにして
鳥羽上皇の糺天の願いもむなしく死を待ち兼ねていたように動いた。
上皇が逝って法皇とよばれたそのたった四週間後の保元元年(1156年)七月二十九日、雅やかな平安京の澄み渡る夏の群青の空の下に竜神の咆哮のように大きな鬨の声が不気味に甲高く響いて京の都をふたつに割き民衆を恐怖の暗闇へ陥れて行った。保元の乱勃発である。
その戦は地獄絵図の序章であった。平安朝は凋落に向かって暗闇へ堕ちて行った。戦世は長く続いて憐れな民が世に満ちた。憐れを創ったのは民だけではない。高貴な身分のものであっても同じであった。戦場に出向かなくても都の何処に隠れようと日本の何処へ逃れようとも憐れに追いかけられたものはその鬼のような所業から脱することは叶わなかった。多くの女子供が抗なうこともなく葬り去られていった。高貴であるがために高貴であったが故に無残な末路を世に示して儚く散っていった。。それが戦乱の世だと思えば思うほどそれが人の運命だと思えば思うほどに悲しくやるせない思いが募る。鳥羽法王はそんな地獄を必死で身を挺して防ぎたかったのだろう。真実を知れば知るほど人の欲望の深さが地獄図を描いてゆくのだと思い知らされる
せつなく哀しい過去が延々類類と繰り返されて刻まれて往くことになった。
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崇徳上皇と後白河天皇派に二分した源平の猛者達が我れ先にと刀刃の閃光を煌めかせて華やかに馬上に踊る。武者達はまさしくその時を諮って居た。満を而して極上為る絢爛煌びやか金糸銀糸の鎧をまとって戦場に馳せ参じた。強弓から射られた矢が戦塵を掃って鋼鉄の甲冑に突き刺さる。鮮血の迸り尽きる事を知らず昼光に野に紅く咲く華の如く、夜陰には川の瀬々らぎの如く流れ出る。怖気ける武の士誰も非ず。命安きもの、志高くして突き進む。武者魂が至上の軍事戦略としてまかり通る。そこには政治の御政道などは無いに等しい。如何なる道理もどんな理屈もねじ伏せて押し曲げ突き進み薙ぎ倒してゆく。そこにあるのは勝利の美酒への期待だけである。勝てば善し、負けて已む無し。人の感情を討ち捨てて人間らしさなどは砂の欠片も必要では無い。いやいや情けほどかえって邪魔物で無用だ。憐れむ心を封じ込められない者は自分自身が地獄の焔に焼き尽くされて逝くだっけだった。生る事を難しくしたのは情けを捨てられない証左であった。非情に徹する情け容赦の知らぬ心が戦乱を駆け抜ける術であり智慧であった。 その戦場にはヒキヨウ者と罵る者など何の役にもたたぬ者として鬼達があざ笑う。片腹痛いといって白刃で切られ長槍の餌食と成って倒れてなお唾を吐き掛けられて侮辱され屍を蹴り上げられて陵辱される。その漆黒の火焔地獄を駆け抜ける間は総ての情けに筵を被せて覆い隠して走ることを学ばなければ明日は吐く息さえも吸う息さえも自分の周りから消滅して天昇するしかない。情けと言う言葉も文字さえこの戦世には要らない。人の命運は神さえ知る由がなかった。生きたいと思うほどに生る事が難しくなってほつれ糸のように絡みついたまま無用の物として捨てられていく。生き延びることが赦されない者達がつぎつぎと灼熱の地獄の火焔の淵へと堕とされてゆく。捻じ曲げるものは人の情け。討ち捨てるものは人の命。ただそれが武者達の信条であった。鬼となって鬼の心を創らなければ自分が生ることが叶わない。生きていられなくなる。生か死か。二者択一の答えは胎児にさえ理解できるほど簡単なことであった。戦とはそういうものなのだ。だから鳥羽上皇は必死で戦に突入する政治情勢を操作しょうとしてきた。曼荼羅の地獄絵巻が現実となって人を呑み込んでいく。赤い血を赤い色と思うことすらない残虐非道の嵐が青天の霹靂となって日本の国土を侵した。衆はただ恐れ戦いて傍観するしか術はない。己が地獄の焔に巻き込まれないように・・・・。
【予告】
血肉の情が反勢力にあった。敵に与した父の助命を乞う義朝に天は情け容赦なく突き放す。非情にも朝廷は助命の嘆願を清盛の圧力に屈して刎ねつけた。義朝は父を自分の手で斬首するという非情の決意で朝廷への忠誠を示しその見返りに親愛なる末弟鎮西八郎為朝の命を救った。父を殺して弟を救う。究極の選択であった。弟よ!生きろ。生きて時を待て。必ずや天は我が一族の味方とならん!
一端は清盛らの圧力に屈した朝廷も義朝の兄弟愛の情にほだされた。唯一平清盛に逆らって"後白河天皇"は義朝の不承のの末弟鎮西八郎為朝を伊豆大島に流刑にする。それは朝廷の最後の命綱であったのか・・・。
源義朝は朝廷の望どうりにひそかに勢力を拡大し実権を牛耳ってゆく。そのころ流刑地の義朝の弟鎮西八郎為朝は・・・・。
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